Ninjaよ!私は帰ってきた!!

四半世紀の時を越え再びバイク乗りに挑戦!が表向きで「これを期にブログをやりたい!」が本音、のブログです。
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受験シーズン間近

今日で10月もおしまいだ。

もう数週間もすれば受験もいよいよ佳境に入ってくる。

というのもセンター試験が目前に迫っているからである。

センター試験 ― 我々の年代なら共通一次と言われるあれだ。未だにセンター試験のことをそう呼んで子供から白い目で見られる親御さんも多いと言う。

昔はそれこそ国公立大学を受験するのでなけりゃ縁遠いものだったが最近は違う。

センター試験の得点をそのまま私立大学の合否判定にまわすことができる。
つまり志望している私立大学の本試験を受験しなくてもセンター試験の得点で合否判定をしてもらえる、ということだ。

センター試験と言えば教科数が多いことで有名なわけだが、私立大学の合否判定に用いる場合には必ずしも多教科を受験する必要がない。中には2教科でもいいようなところもあったりする。

これは便利!とは一瞬思うのだがいろいろ考慮すると受験生に親切でないことが結構多い。

まず第一に発表日の問題がある。
滑り止めでセンター利用をするなら問題なかろう。本人も気づかぬうちに受かってたりする。
でもどうしてもある大学のある学部学科に入りたい場合は本試験を受けることはさることながら、センター利用の願書も出したくなるのが受験生の心理というものだ。要するに保険として受けておく。うまくいけばもうけもの、ということだ。

そういう保険としての利用の仕方があるのだから普通に考えりゃ本試験の前にセンター利用の合格発表があって然りだ。ところがそうではない。そのほとんどが本試験の後に発表があったりする。
だからセンター利用で合格している可能性があっても一応、本試験も受けなきゃいけないわけだ。

次に願書を出す時期だ。
国公立受験者はセンター受験後に自己採点によって国公立の二次試験の受験校を選定できる。まあこれは得点次第では足切りがあったりするから当然なわけだが。

ところが私立大学受験用にセンターを利用する場合はそうではない。結果が良かったから志願してみよう、ということはできない。センター受験する前に志願しないといけない。そうじゃなきゃ得点のいい人だけが志願することになっちゃうから当然でしょ、って思うかもしれないけど大学側は合否判定するだけなんだから別にそれでもいいはずでは?

なのになんでこんなシステム?

答えは簡単だ。

大学側の収入源となるから。

その受験料が聞いて驚く。1万5千円が相場だ。

え?そんなに高くないって?

いやいや。センター利用に関して大学側のやることっていったら願書の整理と合格判定・発表がメインでしょう。つまり作問はしない、問題印刷もしない、必ずしも試験会場にならない。

なのに1万5千円って高くないか?しかも本試験は3万5千円が相場だから両方で出願したら1つの大学学部に5万円をつぎ込むことになってしまう。

それが5つも6つもあったら・・・。

もうちっと受験生に優しくなってもらえないものだろうか?
それとも保険をかける、という意味では当然のことなのか?

そうでなくても本命大学の合否が判明するまで入学金を待ってくれる大学が少ないのも家計にとってはもの凄い負担になるというのに・・・。

うーん。子供を大学に行かせるってのはたいへんだなあ。

また、そこに至るまでの塾や予備校への負担も相当なものだ。

そんなんだからオレ自身、ちゃんとした教育、期待を裏切らない授業をしなくては、って改めて思う。

あたりまえか。

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リスニング①

生徒の一人がリスニングができない、という悩みを訴えてきた。

リスニング。

日本の学生にとってこれほど厄介なものはない。

英語に力を入れている私立校ならいざしらず、公立の生徒が習うことと言ったらひたすら文法が中心なのだ。

それはつまり英語を学問として体系的に学習しているわけで、言語として習得しているのではない。

なぜか?

そりゃ大学受験も高校受験も英語のテストが筆記だからである。英語を6年も習うのに日本人が英語を話せない原因がここにある。
読解に関しては難解な文章を文法構造や構文を見抜きながら解釈しなくてはならない。文法ならば間違い探しをする、みたいな単純に文法力を試すだけの問題もある。

そして日常使わないような単語や熟語をまんべんなく覚えなければならない。
だから高校生はidentification(訳例:同一であること)やsophistication(訳例:高度の複雑化)、approximately(およそ)(aboutでえーやろ)みたいな単語は知っているのに、obesity(肥満)、stapler(ホチキス)、 kettle(やかん)のような日常の身の回りの単語はほとんど知らない。

これのどこが言語習得なのか?

結果、今の生徒は学問としての英語プラス言語習得に必要なリスニング力という二重の負担を強いられているのである。大変なのは無理もない。

もしも大学入試がスピーキングや会話テストならきっと文法は二の次になる。そして子供が言葉を覚えるごとくリピート&リピートで言語としての習得を目指すだろう。

そしたら社会に出ても臆することなく(文法のミスを気にすることなく)英語を使うようになるだろうし、日本人全体のTOEICスコアも伸びるだろう。

だが、おバカな文部ぷーたら省のおかげで現状はそうならないでいる。

なんたら科学省がおバカでよかった。是非にそのままでいてくれたまえ。

そのおかげで大手塾産業はもちろん、私のような職業が成り立っている。

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リスニング②

しかし、リスニングにはさらに高いハードルが控えている。

今でこそ日本人と欧米人の聞き取る周波数の違いが科学的に明らかになっているが(周波数の違い)、われわれの学生時代にはそんなことは取りざたされてはいなかった。

だがオレ自身、実はそうなんじゃないか、と当時からその仮説を立てていた。


電車の中で外国人たちが会話をしているのを聞いてふと思ったのだ。

何をしゃべってんのか聞き取りの練習をしてやろうと思って耳をそばだてたがまるで聞こえてこない。普通の人よりかは英語を専門にやってんだから聞けるはずだと思ったが無理だった。

電車の中。走行中の雑音は相当なものである。日本人なら雑踏の中、声がかき消されないように普段よりハイトーンにしてしゃべるのではないか?普段しゃべるトーンを10段階の5としたら7、ないしは8ぐらい声を甲高くしないと伝わらないことが多い。特にオレなど声が低いから余計にそうだ。

にもかかわらず彼らは普通のトーンで会話をしていた。いや日本人で言うとレベル3ぐらいのトーンだ。さらに聞きづらい。

こりゃもしかして聞き取る能力が元から違うんじゃないか?って思った。


数年後、アメリカを訪れる機会があり、その仮説は確信に変わった。

「日本人にしては発音がきれい」とよく他から言われ、自分の発音にかなりの自信を持っていた。

だが実践してみるとどうだ?

まるで通じない。「ワン、ハンバーガー、プリーズ」すらもだ。そんな英語でさえ何度も聞き返されてオレの自信は跡形もなくふっとんだ。

なにがいけない?

自問自答を繰り返すうち、あの電車の中の光景を思い出した。

そうか。トーンが上がりすぎている。

日本人の場合、よそ行きの声は多少なりとも声が上がる。お母ちゃんが電話に出るときのあれだ。

これは外国人には余計に聞き取りにくいらしい、ということに気がついた。
オレの「ハンバーガープリーズ」もよそ行きの声になっていたんだ。

よく考えてみたらオレの発音がうまいと言われるのは英語の文章を読むのがうまいのだった。それは腹から声を出していわゆる英語の発音になっていたからだろう。

こうなったら、そりゃもう聞き返されるの覚悟で一気にトーン3まで下げて注文するのみだ。

トーン3。日本人相手なら経験上「は?」「すんません。もう一度言ってください」と絶対に聞き返されるトーンだ。

ハンバーガー屋の雑踏の中、低い声でセット名を告げる。

「つ、つうじたか!?」

と、すぐに店員が注文を聞き入れ行動をとった。なんの障害もなく買い物が済んだ。

やっぱそうなんだ。

と、それからはできるだけ低いトーンを心がけ事なきを得た次第であった。


こんな調子だから日本人学生にとってのリスニングはハードルが高いんだ。

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忘年会にて

12月の第一日曜日に副業の忘年会があってお誘いを受けた。

最初はどうしようか迷った。と言うのも知っている人が少ない。校長と勤務日がいっしょだった先生二人、あと事務のお姉さん?ぐらいなのだ。

自分の塾は夕方からだから副業での担当は昼間に来られる浪人生しかいない。大きな予備校ではないので浪人生の数も少なく同時間帯に複数のクラスが存在することはめったにないため教師の数も少なくていい。

校長自身も校長の奥様も英語を教えられるというのでもしかしたらオレっていなくてもいーのかも知れない。

それでもオレはこの副業の雰囲気が好きなので、この際だから他の先生方ともお知り合いになれたらいーかも、と思って参加することにした。

行ってみると魚料理自慢の店だった。彼らはなにかにつけいつもここを利用しているのだろう、馴染み客っぽい雰囲気をかもし出していた。

全部で20名ぐらいだったろうか。配偶者を連れてくる人もいて家族的な雰囲気がこの職場の暖かさを物語っている。

とりあえず新参者の自分は端っこの席に陣取って近くの方々とお話を交えた。

で前、横がもとから知っている先生だったので新しい先生と交友を深める、までは行かなかった。

ビンゴ大会もありその店だけに3時間半ぐらいいたろうか。料理もおいしく会費2500円はだいぶ会社の経費を使わせてしまっているのだろうと恐縮した。

いーなあ。

もともとオレはこういう塾をやりたかった。

塾は産業ではない。
教育の場であるから生徒がお客さまであってはならない。ちゃんと一人の人物として向き合いぶつかっていける塾。
もちろん進学実績も塾としては大きな宣伝効果が得られるから大切だけどそれが一番の目標にならない塾。志望校へ向けてのそれぞれ努力を全力でサポートしてあげられる塾。そーすりゃ結果はおのずとついてくる。
生徒が「先生に教えてもらってよかった」と言い、教師も「おまえを教えて楽しかった」と言える塾。

そう思って始めた事業は失敗をし、いまに至る。

今、仕事は順調だがその内容には最近限界を感じ始めているのである。
つまりそれはオレが教えられる教科が1つしかない、ということだ。

英語という教科の特性のおかげで1教科でも塾として成り立ってはいるが、受験後の生徒の報告で「数学でやられた」とか「英語はできたけど国語が・・・」といった報告を聞くとやるせない気分になるのである。

もう一度動くか。

前回は共同経営みたいな形でお互いの主張がかみ合わずに破綻を招いた。今度は経営者として上の立場にたって、とか言っても人を使うことの難しさは経験済みだ。

やっぱ無理かもね。

そんなことを考えながら遠い道のりを帰ったのだった。

それでも帰る方向が一緒だった先生たちと知り合いに慣れたので参加した意義があったし何より楽しかった。

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真逆の文化

英語という科目を教えていると思う。

日本語とどーしてここまでさまざまな表現が真逆になるのだろう?と。

優劣を示すような表現「高低(high and low)」や当然の成り行きである「原因と結果(cause and effect)」などは当然同じとしても、

父ちゃん母ちゃん → mom and dad
需要と供給 → supply and demand
左右 → right and left

などはまったく逆なのである。
たまに「潮の干満(the ebb and flow)」など同じものもあるがたいていは気付くと反対なのだ。

この違いは「肯定と否定」の表現にも及ぶ。

「私は20歳になって初めて海外旅行をした」という肯定表現をする日本語に対し英語は
I did not go abroad until I was twenty.「20歳になるまで私は海外へ行ってない」という否定表現をする。
他にも「家についたとたん雨が降り出した」が
I had hardly arrived home when it started raining.「雨が降り出したとき、私はほとんど家に着いてなかった」とか。(こんな日本語表現使わないし)

逆に「彼は食べきれないほどのパンを買った」という否定表現を英語は
He bought more bread than he could eat.「食べられる以上のパンを~」というように肯定表現を用いる。

また「暗くならないうちに帰ったほうがよい」が
We'd better go home before it gets dark.「暗くなる前に~」になったり、

「空を飛べないのと同じでオレにとっちゃ歌うなんてのはもってのほかだぜ」が
I can no more sing than I can fly.「オレが歌えるって言ったらオレが空を飛べるって言ってんのとなんら変わらんぜ」みたいな表現をする。

こーだから日本人にとって英語は理解しにくいし、アメリカンジョークが笑えないのもそのせいだろう。

なんでこんなに違う文化が存在するのか、って本当に不思議に思うし、またそれだからおもしろい。

まあだから長年やってても飽きないんだろうけど・・・。

神さまってのはおもしろいことをなさる。

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